悩んで迷って

明確にはっきり答えがわからないんだが、何かモヤモヤとしてやる気が出ない時ってあります。

 

コピーライターのプロである小西さん、佐々木圭一さんの著書を読んだら書いてあったのですが、プロとアマチュアの違いは、アマチュアは0点の時もあるし、100点を出せる時もある。プロはいつだって90点を求められ、90点を出さなくてはいけないということ。

つまり、プロと名乗るにはできる時もあるしできない時もある、ということではいけなくてコンスタントに結果を出し続けることが必要になる。 

じゃあ、結果を出し続けるためのモチベーションってすごく大切だよね。と思い、冒頭のような状況では、どうしたらいいんだろう?と考えました。

 

○モヤモヤとしてやる気が出ないとき、モチベーションがあがらないときの対処法

 

①何でモヤモヤしてるのか、突き詰める。正面切って向き合う。

いろんな視点で、モヤモヤの原因を探る。気になってることはないか?心に刺さった棘はないか?

まあ、これは根本治療という感じなのでできたらすごくいいけど、ちょと難しい…だってできてたら、そもそも悩まねえ!!

 

②身体を動かして、無心になる。

そうじ、あるく、はしる、およぐ…

なんでもいいと思います。なんでもいいけど、とにかく身体が動くものがいいです。頭を空っぽにして身体を動かすと、いつの間にか自分が入れ替わっているような感覚におちいり、その後問題に向き合えるような気がします。振り返ってあれ、何で悩んでたんだっけ?と思い出せなくなるくらい。

とにかく、すっきりして頭も身体もふわっと軽くなります。

 

③とにかく深呼吸を繰り返す。

これも、②と同じことのような気がしますが、呼吸に集中していると雑念が消えて、空っぽになり、悩んでいた自分とは違う自分になれる。そうすると、客観的に自分を見直せてモチベーションを立て直せる。

 

さて、①〜③までは自分がモヤモヤしたときにいい方法だなぁと思ってます。

結局は現状から自分を引き離し、客観的に自分を見つめ直すことで気持ち新たになり、自分をコントロールしやすくなる。自分をコントロールしやすくなるとモチベーションもあげられる。という持論です。

自身をコントロールして、いつでも一定の結果をだすためには?

まだまだ考えていきたいと思います。

それではまた!

 

誰のために怒るのか?

職場であったことからメモです。

上司から、怒られることがあるが、そのあり方について整理したいと思います。

 

職場で、職員が上司に怒られる、ことはよくあることだと思いますが、今日はその怒られた方は「なんでそんなこといわれなきゃいけないの!」となり、上司もピリピリして、非常に、空気が悪かったのです。言葉を受け入れられないことは、内容がやや理不尽だったのかもしれないし、もともと相性が悪い、みたいな理由もあるかもしれません。

 

しかし、怒られたときって、受け止められる時と受け止められない時があります。

それは何が違うからなのか?について考えてみました。

○気分で怒る人。⇒受け止められない・受け止めたくない

 自分の精神面がささくれ立って、怒ってしまう場合は、たとえ怒る内容が正しものであったとしても、受け止められないし人間的にもやや未熟さを感じますし、理不尽に感じることがあります。

よって、どんなに正しいアドバイスでも受ける側は受け止めたくないと頑なになる可能性があります。

○その人の気分でなく、信念によって怒る人。⇒受け止めたい!

 その人の気分とは一線を画して、それはすべきではない、いけないことであるという信念のもと怒られたら、自分の考えとは異なっていたとしても、納得感はあるから、受け止めたくなると思う。

 

今回のことから学んだことは、

・怒る側に立つときには、(できるだけ)自分の精神面を安定させることを意識すること

・自らの信念や理想があること

が必要なのでは?ということです。

本当は、怒る前に客観視することが必要と思ったのですが、怒るということは非常に感情的なので、客観視は難しい。思わず、ってありますよね。(客観視できてたら、それはもう怒るではなく、叱る、諭すになる)

ただ、その感情的な中にも受ける側が、受け止められる場合とそうでない場合があります。

私だったら信念による怒りで怒ってほしいと思います。

 

 人に動いてもらうのが一番難しい。自分を動かすのもままならないのだから、そりゃあ、そうだ。と思いつつ精進したいです。

 

それではまた!

 

承認なしでどこまでいけるか

我々は承認されたくて仕方がないものであります。

 

人生をどう生きるかはそれぞれですか、どう生きたらいいんだろう。何をやったらいいんだろう。この方向は合っているのか。

結構迷うものだと思います。私はまだまだ、迷っています。

そういう迷った時何を選ぶかという判断基準に、『承認されるかどうか』を基準にしないほうがいいと思う。というお話です。

 

【承認されるかどうかを基準にしないほうがいい理由】

①誰かへ、判断する基準をまるっと移してしまうことになるから。 

⇒自分の基準でなくなるため、責任がなくなる

②価値基準を他人に引き渡すことで、リスクを受けられなくなる。

⇒誰かに認められるということは、結局のところ他の誰かがすでに考えたことでしかないから。新しいものは生み出せなくなる。

③承認されることが目的になってしまう。

⇒本来の目的は、何かを達成することであるのに、それが仮の目的になってしまい、承認されることが真の目的になってしまうと、承認されたところで成長がとまってしまう。

 

でも、意外と承認されることを意識せずに追い求めている人は、なぜ、追い求めるのだろう?

それは、承認されることがめちゃめちゃ強い力を持っているからです。

 

(承認されることの効果)

・承認させると、承認欲求が満たされるので、よくわからんがめちゃめちゃめちゃ嬉しい。

・その嬉しさが、次のモチベーションにつながって動く。

この、承認欲求が満たされたときの快感?気持ちの高まりが、強すぎるため、やっかいな気がします。

もちろん、他人の意見なんか気にすんな!承認されない道を行け!と主張したいわけではありません。

永遠に承認されないことをやるのはかなりの覚悟がいるし、大変すぎると思いますし…。

 

ただ、迷った時に承認されそうだから…と安易に選択するのは待ったほうがいい。そういう時には、【これは、誰からも全く承認されなくても、認められなくても、続けたいか?やりたいか?】

という確認を自分にすれば、意外にも答えは出ると思います。

承認されないなら、やらないわ。という答えだったら、承認欲求の快感に引きずられているかもしれません。

ちなみに、ここでいう承認とは他己承認です。自己承認はまたちがうかなと思ってますのでまた今度に持ち越します。

 

では。

-----------------------------------------------------

はっ!と突然気がつくことが最近は多いですが、前はなぜそう思ったの?と言語化しなかったなあ。言語化するという処理は、何回もフィルターにかけて、濾す、濾過するような作業だなと思います。

 

思考のやめどころを自覚する。

思考は大切、考えることは大切。「自分の頭で考える」事の重要性を考えだしてから、そう考えておりました。

同時に、「考え続けなければいけないし、考えることを放棄するのは逃げだ!」と思っていました。

が、本当にそうか?という疑念が。

今回は思考を放棄するタイミングと決断について考えてみたいと思います。

例をあげながら、考えてみます。

例:Aさん(友達)が困っているらしいことに対して解決してあげたいが、困っていることが何かがわからない。(Aさん自身も言語化できていないため、伝えられない)

・まず、思考をやめる(放棄する)っていどういうこと?

⇒ある問題について考えることをやめてしまうこと。

例でいえば、Aさん自身もわからないなら、困っていることがわかるわけないじゃないか!考えても仕方ないよね!ご飯食べて寝よ!

という感じ。うーん、結構こういうことはよくあります。私。

・タイミングと、決断とは?

⇒やめる、ということを決める、意識して判断すること(意識的に!)

この例でいうと、Aさん自身もわからないなら、わかるように他の友人から聞き取りをする、Aさん自身の立場になって、何に困っていそうか分析してみる…など、考えることを続ければ困っていることを把握し、解決する糸口が見つかるかもしれません。

 

で、今回考えていて、あれっ?と思ったのは、これまで私は「やめる」という『タイミング』は、無意識で『決断』していたということです。

比較的、仕事にかかわることについては昔よりも考えるようになったし、考えることを投げ出さないように意識している部分はあります。「なぜ、そうなるのか?」「どうしたいのか?」「どうなったらいいか?」など、考え続けるようになったと思います。

が、人とのコミュニケーションに関する部分(今回の例のように、人が困っているんだけど、言語化されていない場合など)については、「他人のことなんてどうせ考えてもわかるわけがない」といって考えることをやめるハードルが低かったことに気が付きました。

今回考えたことをまとめてみると…

◎思考をやめるタイミングと決断を意識的に行うことで、自分の思考の癖がわかる!

ということがわかりました。(私であれば、人の想いを理解することは難しいという思考の癖があったことを自覚しました。)

ただ、思考をやめるな!と言っているわけではありません。だって友達が困っていることが自分にはどうにも解決できないこともあるだろうし、悩みだって理解できないこともあります。が、その問題はそこまで考える必要のある問題なのか。

「なんのために」思考をやめるべきなのか、いつのタイミングでやめるのか。を考えて決断すべきと思います。

これはきちりんさん&梅原さん共著の「悩みどころと逃げどころ」とは、どういうことかを実感を持って、感じられたと思います。

 

悩みどころと逃げどころ (小学館新書 ち 3-1)

悩みどころと逃げどころ (小学館新書 ち 3-1)

 

 --------------------------------

今回は伝えたいことを伝えきれなかった。。自分でもうまくまとっ待っていないような気がします。長いし…。もっと要素を抽出していいたいことを絞ればわかりやすくなりそうですね。

そして1日1記事は時間的に厳しい!事を自覚。

生活者視点を忘れていないか

本日は、社会のシステムは、生活する身体を置いてきぼりにしていないか?ということを考えます。

 

人間は一つの体と心しかもっていなくて、それを切り分けるのは不可能である。

確率は100万分の1であっても、飛行機事故にあったという事実は、その個人にとって1か0でしかない、あるか、ないかという問題。

例えば、身体がきかなくなってねたきりになったとき、その理由は様々である。難病なのか、下肢のきかない障害なのか、加齢か。

でも、本人にとっては、身体が動かない理由が重要なのではなく、動かないもどかしさ、そしてどうやって生きるのかということが重要になってくる。

しかし社会の制度(行政の制度)は身体が動かない理由でそれぞれの人々を切って分ける。結果(身体が動かないこと)はおなじなのに、支援の方法や、きまりが異なることで、身体が動かないことによる生きにくさに差が出てくる。(支援が手厚い部門、手厚くない部門)

例えば、認知症高齢者への支援は世間的に注目もされ、支援制度もあるが、若年性認知症はまだ支援制度が充実しておらず、高齢者であれば受けられる支援が受けられない、ということが生じる。

 

このようなことから

⑴専門性はいかがなものか。

身体を内蔵、心臓、手足、脳、など分けて専門的に考えるのが現状だが、これでいいのか?それぞれの専門に特化することで全体を見通せなくなり、マイナスになることはないか?

⑵手段の目的化がないか?

 ①もっとも解決すべき課題(身体のきかない人の生き辛さを解消する)を解決することよりも、②できた制度をそのままで、③各部門がそれぞれ別々で運用することへの優先度を高くしているために起こりうる。

これもまた手段の目的化…と思う。

 

生活者視点から考えることで、見えなくなっていたものが見えるようになり、課題解決のヒントが見えてくる気がします。

 

ではまた!

・三日坊主すらならず。毎日書き出すって、意外に大変ですね。

 

手段の目的化、これでもか。

手段を目的化すると、途端につまらなくなる。というかマイナスになる。というか本来の目的が達成できなくなる。

ということは皆様、薄々と感じていると思う。

ドラマでいう「家族を養って幸せな人生をおくるために、仕事に没頭したらお金は手に入ったが家族との絆を失う」パターン。

この話の中でいうと、

① 目的:家族と幸せになる 

② 手段:幸せのためにお金を稼ぐ 

③ ②達成のための手段:仕事でノルマをこなす という中で、

①②③の優先順位がいつの間にかひっくりかえってしまうことが『手段が目的化してしまう』ことだと考えています。

「そんなのよくないよね、目的を忘れてしまわないようにしよう」

と何度思ったことか…。でも実際には、あれ、いつの間にか手段が目的化…となりませんか?

目の前の手段が、いつの間にか目的になってしまう理由はなんでしょうか?

それは、固執するからだと思います。

例えば、家族の話でいえば、

「③のお金を稼ぐ手段である仕事のノルマをこなす」方法を成功させることに固執しすぎる

⇒視野が狭くなる

⇒③を達成する事しか考えなくなり、結果として①が達成できなくなる(本末転倒!)

頑張って全力で取り組むことは大変重要だと思いますが、そのせいで視野が狭まり、客観的に自分を見直す時間があると、本当に達成したい目的を忘れないで動けるのかなと思います。

まとめると、「手段の目的化は手段への固執によって引き起こされる。避けるためには自分を客観的に見よう」となるわけですが、これだけが原因・そして対応策ではない気がしますよね。他にもたくさんありそうな。

 

また考えます。

ちなみに本日から、下記キャンペーン中です。

・1日1善ならぬ1日1記事(三日坊主の予定)。

・1記事につき制限時間15分で書く。(ちなみに本日は30分かかりました)

制限付きだからこそ、新しいことが生まれると信じつつ、また明日です。

縦割りって問題だと思うけど、どう解決するか?

セクション・縦割りと聞くと、どんなイメージがわいてくるだろうか。

私はネガティブイメージです。

『縦割りだから、できない。』

『それは別のセクションの仕事だから。』

と、言い訳の言葉としてよく使われてきたからだと思います。

わりと呪文のように言われているし周りも言っている言葉のような気がします。

なぜ、おこるのかについて考えてみます。

縦割りはなぜおきるのか?お互いのセクションの事をよく知らないから。

知らないのはなぜか?興味がないから(興味を持てるように整理されていない・目を引くように情報が包装されていないから)

⇒つまり興味を持てるように、情報を整理してセクションの事を知ることで、縦割りは解消される!?

読みたくなるような情報がつまった社内情報誌があれば、縦割りの解決の糸口になるんじゃないかと。

言うは易し行うは難し。アイデアをどう具体化するか、が重要になってきますね。

それではまた明日。