承認なしでどこまでいけるか

我々は承認されたくて仕方がないものであります。

 

人生をどう生きるかはそれぞれですか、どう生きたらいいんだろう。何をやったらいいんだろう。この方向は合っているのか。

結構迷うものだと思います。私はまだまだ、迷っています。

そういう迷った時何を選ぶかという判断基準に、『承認されるかどうか』を基準にしないほうがいいと思う。というお話です。

 

【承認されるかどうかを基準にしないほうがいい理由】

①誰かへ、判断する基準をまるっと移してしまうことになるから。 

⇒自分の基準でなくなるため、責任がなくなる

②価値基準を他人に引き渡すことで、リスクを受けられなくなる。

⇒誰かに認められるということは、結局のところ他の誰かがすでに考えたことでしかないから。新しいものは生み出せなくなる。

③承認されることが目的になってしまう。

⇒本来の目的は、何かを達成することであるのに、それが仮の目的になってしまい、承認されることが真の目的になってしまうと、承認されたところで成長がとまってしまう。

 

でも、意外と承認されることを意識せずに追い求めている人は、なぜ、追い求めるのだろう?

それは、承認されることがめちゃめちゃ強い力を持っているからです。

 

(承認されることの効果)

・承認させると、承認欲求が満たされるので、よくわからんがめちゃめちゃめちゃ嬉しい。

・その嬉しさが、次のモチベーションにつながって動く。

この、承認欲求が満たされたときの快感?気持ちの高まりが、強すぎるため、やっかいな気がします。

もちろん、他人の意見なんか気にすんな!承認されない道を行け!と主張したいわけではありません。

永遠に承認されないことをやるのはかなりの覚悟がいるし、大変すぎると思いますし…。

 

ただ、迷った時に承認されそうだから…と安易に選択するのは待ったほうがいい。そういう時には、【これは、誰からも全く承認されなくても、認められなくても、続けたいか?やりたいか?】

という確認を自分にすれば、意外にも答えは出ると思います。

承認されないなら、やらないわ。という答えだったら、承認欲求の快感に引きずられているかもしれません。

ちなみに、ここでいう承認とは他己承認です。自己承認はまたちがうかなと思ってますのでまた今度に持ち越します。

 

では。

-----------------------------------------------------

はっ!と突然気がつくことが最近は多いですが、前はなぜそう思ったの?と言語化しなかったなあ。言語化するという処理は、何回もフィルターにかけて、濾す、濾過するような作業だなと思います。